月別アーカイブ: 2014年8月

それでも好きだから頑張れる

中澤まさとも『人生のパクが早上がりでもさ!』03

夏ですね。暑いですね。
皆さん、国際展示場で開催される夏祭りなどでは熱中症にならないように準備は早めに済ませて、お風呂に入って(そのあと水分補給して)寝ましょうね。正常な代謝を維持していないと、ほんとに倒れちゃいます。徹夜ダメ絶対!
さて、この時期の声優は秋番組や秋リリース作品の製作に参加し始めている状態だったりしますが、僕はと言うと、悲しいかな、秋のアニメ番組の出発時はどの作品にもいないと思われます。
何故ならオーディションになかなか受からないから…。
と言うわけで今日はオーディションのお話です。

オーディションと言えば、僕が今いる世界に関わったのもオーディションからでした。
齢16にして受けた声優グランプリさん主催の『声優スター☆誕生計画』。あの頃はとぉってもフレッシュ!でしたが、声優になりたいのと同時にやりたいことが色々有りすぎてひどく意識は散漫だったように思います。
数年前から声優としての足場を固めることに従事するようになって、ようやく今の立場まで歩を進められました。僕は不器用ものですから、それくらいの意識でないとやっていけない世界だったのだなあと回想します。
もちろんまだまだこれから先へと進んでいきますが。
とまあ、そんなわけで役者になったら避けることのできないオーディションというもの。こいつがなかなか受からない…!実に悔しいのです!
僕なんかもう毎度落ち込みますし、規模は様々なれど、心底悔しいことの方が多いです。オーディションに落ちた連絡受けたら電話切ったあと「グギギーッ!」って言います、自宅で。外では「……クッ……!」って言って大きく息を吐きます。声にするばかりが声優ではございません。なんて。
そんな僕は先輩によく言われます。「オーディションは100件受けたら99件落ちてようやく受かるくらいに思った方がいいんだから、毎回悔やんだり落ち込んだりしてても仕様がないよ?」と。
いやいやまたまたー。先輩達だって悔しいですよね?落ち込みますよね?ね?

先輩「…(黙って頷く)」

さておき、こんなことばかりで心は大丈夫なの?と心配もされます。確かにオーディションの合否が出る頃に限っては大好きなアニメ・マンガも僕をキリキリと苦しめることがあります。
「ああ、己が不足しているゆえに、自分はその作品世界には居ないのだ…」と。
特にオーディションに落ちた作品のオンエアを観るときは歯を食い縛りながら観てたりします。
痛くても辛くても、それでも観ます。
何故なら今自分がその作品世界に居ないのは自分の不足であって、紛れもない事実ですし、自分が受からなかったキャラクターを受かった人がどう仕上げたかやっぱり気になるわけで…学ぶことが多少なりともあるからです。
それにどうしてもアニメ・マンガが好きだし、関わっていたい世界ですし、僅かでも学んで自分の茎を伸ばさないとって思っていますから。
ところで9月26日発売のコマネックスDVD『BLB』はご予約頂けましたか?
ベーコンレタスバーガー専門店BLBに勤める個性豊かな店員達のわいわいと賑やかな日常劇は楽しいものです。
僕の演じる馬場優人くんは、実はオーディションで受かった役なのです!嬉しいものです。諸手を挙げて喜びました。
……ん? と言うことはこれから99件はオーディションに受からないということでしょうか?
……大袈裟な話ですが想像するととてもお腹が痛くなります。
早く各方面より信頼を頂けるよう焦らず、しかしがっつりと、且つ丁寧に作品世界を描くお手伝いをしていかなければと思います。

最中(もなか)

『ひらいまさゆきの「あんこに想いを廻らせる。」』03

ども、あんこ大好き!平居正行です。

このコラムは、あんこ大好き!を自称するおいらが、ちょっと気になっているあんこを食べにふらっと街に出掛けてみたり、過去に食べてきたあんこたちに想いを馳せて語ってみたりと、あんこの魅力を勝手にいろいろ紹介していくあんこコラム、題して、『ひらいまさゆきの「あんこに想いを廻らせる。」』です。どうぞよしなに。

今回は、美味しいあんこを食べに出かけるのはひとまずおやすみにして、自称「あんこ好き」をかかげるおいらとして、避けては通れない“苦手なあんこもの”のことを書いていこうかと思います。

おいらが苦手なあんこもの、それは、「最中(もなか)」。
正直なところ、おいらは最中があんこものの中で唯一苦手なものなのです。
最中のなにが苦手かと言うと、実は、はじめのうちはよくわかりませんでした。(子供の頃から苦手だったということもあり、初めて一口食べてみたときダメな食感だったのだろうと思います。)
よく言われる苦手な理由が「最中の皮が歯の上にくっつく感じがダメなんじゃないか?」
確かにそうなのかもしれない。
でも、アイスのモナカなら食べられる。その上あんこ自体は好きなのだし。(※ものによっては最中の皮が湿ってしまわないように、あんこの水分を減らした“最中専用あんこ”を使ってるときがある。その場合は、そいつも苦手でございます。)
それで、なんとなくだけれど苦手の原因は“最中の食感”にあるんじゃないか、と思っていたのです。
おやつに最中を出されても、苦手ということで口にすることを遠慮してきました。

「最中は...苦手。」と言うたびにまわりから「美味しいのに~」と言われてきたおいらは、ときに「何故に最中なんてものがこの世に存在するのか」という苦言を吐き、またあるときは「最中の皮がクッキー生地だったらいいのに!」なんて暴言を吐くアンチ最中派でありました。(全国の和菓子職人さん、ごめんなさい!)
そして、大人になってからも、最中を食べるのはなるべく避け続けてきました。
しかし、ときたまおみやげやいただきもので最中をいただく機会が何度かあって、せっかくいただいたものだから中身のあんこだけでもいただこう(←行儀悪くてごめんなさい!)と思い、意を決して何度か最中を食べてみたのです。
すると、(ダメな最中は本当にごめんなさいだったのですが)思い切って食べてみると、たまに「あれ?この最中、あんこと一緒に食べたら皮も意外といける!?」というものがあったのです。
しかもごく稀に、食べてもまったく食感が気にならないときもありました。
あらためて調べてみたら、もともと最中の皮の原材料は、餅。それなら、あんことの相性が悪いはずはない...。
そこで辿り着いた、おいらが最中を苦手な理由、それは“最中の皮の独特な風味”。
そう、その風味が弱い最中だと、おいらも食べられると判明したのです!

それに今では、あんこと最中の皮を別けてある“セパレート型最中”というのもあって、ありがたいことにそれならなんとか美味しく食べられるようになりました!(もちろん、最中の皮もね)
でもやはり、9割がたの最中は昔ながらの最中の風味なので(←当然ですね)独特な風味を持っている皮ゆえに、まだまだ最中は苦手と言い続けるおいらなのです。トホホ。

それからひとつ注釈をば。
冒頭から「最中の皮!」「最中の皮!」と繰り返し言い放っておりましたが、最中の皮の正式な名称は、「種(たね)」と言います。
なんだかもうそれは外側の皮のことを指しているのか中身のあんこのことを言っているのか訳がわからなくなっちゃうと思い、そのままにしております(笑)悪しからず。

はてさてあんこコラムの第三回、今回おいらが想いを廻らせたあんこは「苦手克服?!最中」でした。

美味しいあんこは美味しいうちに、どうぞ本日中にお召し上がり下さい。
おしまい。

自分を信じては疑って

『粕谷幸司の自由なコラム』03

 積み重ねてきたものを、アッという間に崩してしまうことは嫌だ。
 丁寧に築き上げてきたものを、一瞬で壊してしまうことは恐ろしい。
 だからこそ僕は、いつもいつも考える。同じことでも、何度でも考えたりする。

 物語をつくるためには、あらゆることが「タネ」であって、目に見えるもの、聞こえるもの感じるもの色んなものを、すべて自分の中に入れることが大切だと思ったりしてきた。
 祖父の葬儀の時も、どこかでカメラを構えたい衝動を持った自分がいた。親族の葬儀なんて、そうそうあるものじゃないし、想像では追いつかない現実がそこにあるから、いつか何かのために記録しておきたい、とかそんな感覚。
 例えばドキュメンタリー番組のように、起こりえないトラブルの瞬間こそ撮りたいと思うというか…そういう、僕の言葉で選ぶと「創作に取り憑かれた人間の変態性」のような。そういう感覚がずーっと、作家を目指していた頃から今でもずっと、僕の中にはある。

 記憶というのは素晴らしいもので。使わないものや持っていたくないもの、不要だと思うものから時には必要なものまで、自動的に処理されて、失くなったり、都合よく書き換えられちゃったりする。
 たしか祖母の葬儀の時、僕は幼くて、すっかり飽きていて、お坊さんがお経を読み終えた瞬間に「終わったー!?」と声を上げて、一同を沸かせたというエピソードがあって。それはもう、僕の記憶には完全に残っていないはずなんだけれど、何度か家族から「そんなことがあったよ」と話を聞かされて、今ではなんとなく、その時の風景を思い出せちゃったりして。

 事実、というのは本当はひとつしか無いんだけれど、現実というのはその瞬間に形を失くしてしまうもので、記憶から裏付けられる過去なんて、もはや存在するのかしないのか、したはずだけれど消えたのか、なかったはずなのにあったのか、なんとも脆いモノなのかなあって、思う。
 じゃあ自分が信じている確かなものっていうのは、実はナニモノとも言えない「今」でしかないというか、この瞬間だけで成立している幻想のようなもの、なんじゃないかな、と思う。

 いわゆる「感覚」という、なんとも表現しきれないモノ。
 今までの人生で得た諸々とかがずーっと繋がって結びついて辿り着いているはずの「今」なんだけれど、その糸を手繰り寄せようとしたら、本当はいろんなところが絡まっていて、ともすれば何ヶ所も途切れては強引に結び直されているように思えて。
 信じている、自分の持っているすべてに、自信がなくなることが多々ある。

 けれど僕は、その厄介な性質を、やっぱり大切に思っている。
 昨日まで正解だったものが、今日は間違いかも知れない。さっきまで大嫌いだったものが、今ちょっと好きになっているかも知れない。
 過去を振り返れば「そうだったはず」のことも、今この瞬間から考え直したら「そうではなかった」かも知れない。

 じゃあ、今まで積み重ねて、築き上げてきたものが、この瞬間に意味を成さなくなってしまったら。信じてきたものが「やっぱり違った」りしたら。
 …嫌だなあ。とんでもなく、恐ろしい。
 けれど、そこに真正面から向き合わないと、全力で疑っては考え直してみないと、もっと先の未来をつくれないと思っていて。
 そして、向き合って疑える「そうだったはず」のモノも、丁寧にいつまでも生き続けるヌカ床みたいにしておかないと、腐ってしまったらお終いで。

 何度も自分を信じては、信じた過去を疑って、導き出した自分を積み重ねては崩して、築き上げたら立て直して、もっと新しい自分がつくれると信じられること。
 これが、僕のやり方かなと、思ってる。