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続いていくと良いな

『粕谷幸司の自由なコラム』07

 Project One-Sizeでコラム企画をはじめて、もう半年が過ぎた。いつの間に…。
 月に1回の更新とはいえ、それぞれがそれぞれなりに思いを込めて文章を書くという企画。
 発案時のあのPodcastでも話していた通り、納得のいくようにまとまらなくて苦しんだり、文字数が多い・少ないで調整したり、たまたま忙しさが集中して時間に追われつつ書き上げたり。
 始めてみると実際に難しい状況がすぐさま訪れたりしたけれど、もう半年。
 続けていることって、まずはエライ。

 僕らはPodcastというネットラジオ形式で、トーク番組と音声ドラマ(コント)を発信しはじめて、9年目を迎えている。
 2006年11月から、毎月3回(+31日のおまけ)をずっと続けている。なんということ。
 1回1回のクオリティやコンディションは…まあ別として(笑)、ずーっと続けてるって改めてエライ。

 続けていると、その時間の流れの中で、様々な変化があったりする。
 環境が変わったり、自分の想いが変わったり、世の中が変わったり。
 それでも何かを続けているって、なんかすごい。

 小学校は6年間、中学・高校は3年ずつ、大学生活は4年(…僕は5年だったけど)。
 ある程度の“生活”って、ある程度の長さで終わったりしてきた。
 僕の場合は最初に勤めた会社も3年で辞めてしまったし、わりと長期にわたって続いてることって改めて考えてみると少ないから、やっぱりエライ。
 ちなみに、僕が小説なりシナリオなり「物語」を書くようになったのは、小学3年生のころだった。10歳そこそこだったとしても、もう20年以上になる。
 内容も形式も変化していたりはするけれど、物語を書き続けている僕の人生…、自分で考えてもエライもんだ。いや、代表作・ヒット作は今のところ無いけど。

 今こうして、ここに至るには、いろんなことを始めて、続けて、終わってきた。
 永遠なんてものは無くて、今のこの生活がいつまでどのように続くかなんてわからないけれど、なるべくなら少しずつ成長・進化をしながら、まだまだ続いていくと良いな、と思ったりする。

 続けることをしたい、のではなくて、したいことが続くと良いな、と思うこの感じ。
 いつまでやるか、なんて決まっていないからこそ続く感じ。
 多くの社会人たちが、いつのまにか手に入れている“生活”という感覚は、実はとても尊いなあ。

 目標と期限を決めて、クリアして終わらせて、次を始めるというのも、とても強い意志のもとでの成長・進化であって、素晴らしいことだと思う。ひとつひとつの小さなことは、そうやって「終わり」を積み重ねて進んでいくのが良い。
 けれど、ほら、みんな同じ。みんなが、一番長く、自分の人生ってやつを、続けてる。

 いつまで続くかわからない人生を、たくさんの変化を迎えながら、続けている。
 続けようと思って続いているというよりは、今のところ続いているから続けている、みたいな感じ。
 20年も、30年も…、何十年も“自分の人生”ってやつを続けてるんだぜ?
 エライね、みんな。

 たどり着きたい未来に向かって、一歩一歩、進んでいく。
 いや、もしかしたらあてどなくただ、ただ進んでいるだけなのかも知れない。
 けれどどこかに行き着いて、ふと視線を上げてみれば、まだまだ道は続いている。
 「終わらないよな…」なんて思いながら、また、また歩き続けていく。

 そんな時、歩き続けながら、ちらりと後ろに目をやってみる。
 するとそこには、今まで歩んできた道が、ずーっとずーっと伸びている。

 そんな長い道のり、戻りたくもないし、もう一回同じ長さを歩く自信なんてものはない。
 …そうしてまた、前を向いて、どこまでかわからない道を、進み続けていく。

粕谷幸司ごっこ

『粕谷幸司の自由なコラム』04

 そこまで深い考えはもちろん無かったけれど。

 幼稚園のころのお遊戯会で、最初と最後に2ヶ所、いわば物語の「フリ」と「オチ」だけを言う役をやった時。おもいっきり間違えて、登場と同時に「オチ」の台詞を言ったら、会場が大爆笑になって、すごく恥ずかしかった。わりとその時、本気で「もう人前に出るの嫌だ」と思った気がする。

 それでも僕は、やっぱりどこにいても目立つ存在で、何もしていなくても話しかけられたり、そうでなくてもたくさんの視線を感じることが多かった。
 すっごく恥ずかしくて、すぐ顔が赤くなるし、緊張するし。あんまり、得意じゃない。

 …でも、なんでだろうな。ずっとテレビが大好きで。どこかでずっと「一緒に出たいなー」と思ってた。教育テレビの、子供が料理する番組とか見ながら、一緒になって料理したり。子供が主人公のドラマとか、そういうのにはすっかり感情移入して、世界に入って楽しんでいたりした。
 そうだ、今、言葉にしてみると「物語の登場人物になりたい」。そんな感情。

 小学生のころ。ごっこ遊びが大好きで、アニメのキャラクターを友達と分けて遊んでた。
 じきに児童小説とかを読むようになって、頭の中で物語の登場人物たちと一緒に遊んでた。
 気付けば自分で世界を想像したりし始めて、物語を話したり書いたりして、遊んでた。

 物を書けることって、けっこう重宝されるというか、それもひとつの技能で。周りから「面白いね」「上手だね」「すごいね」って、おだてられるままに(笑)どんどん書くことが増えていって。
 しかもそれは僕の場合“いくつもの自分の投影”になっていることが多いから、いわばシナリオを書いてる時は、あのころの“ごっこ遊び”の楽しさで、気持ち良くなってたりする。
 つくった人物になりきって、物語の中で生きて、ごっこ遊びのように楽しんで、それが僕の「書いた物」という作品になって。
 …そういう面白さを知っているから、まだまだ、書いている。

 中澤さんや平居さんは、たぶん僕よりちゃんと「プロ」なので。こういう“楽しみ方”っていう言葉だけじゃダメだということを知っているんだとは思うんだけれど。
 彼らのように、役者のプロを僕が名乗らないのは、僕は似たような感覚を持って、似たような表現に挑んでいても、どこか…“役者ごっこ”をしているような気持ちだから。
 そう、僕はきっと、演じているのではなくて“なりきっている”ような表現ばかりをする。だから、プロとして融通がきかないというか、上手くないし、上手くなれたら楽しいなーとは思っているけれど、上手くなることに全身全霊で挑んでいない、ような気がする。
 …ヤバい、怒られそう。

 けれどこれが、僕の理想的な生き方だったりもするので、どうか、許してくれないだろうか。
 僕は…“自分ごっこ”をして、人生を楽しんでみたい。

 アルビノごっこをしてる。物書きごっこをしてる。役者ごっこをしてる。エンターテイナーごっこをしてる。
 粕谷幸司ごっこをして生きていられたら、この人生すごく楽しい。

 いつか、この人生がひとつの物語として完結する。
 ハッピーエンドなのか、バッドエンドなのかわからないけれど。
 振り返ってみれば滅茶苦茶だったような、でも裏でテーマが通ってて、のらりくらり寄り道もしたけれど、なんだか面白かったな、悪くなかったなーって。
 それこそ、最後には形に残っていなくても。もしかしたら、アッという間に忘れ去られるものだとしても。
 儚くとも楽しい、まるでエンターテイメントそのもののような、粕谷幸司ごっこ。
 2度と無い、自分ごっこ。

 それを楽しんでいられたら、かなり幸せだなあって、思ってる。